2017年5月23日火曜日

【余談】田中角栄とアマゾン

■知り合いの…

佐藤修さんが
「田中角栄 最後のインタビュー」文春新書1124/平成29年5月20日・刊
という本を書かれました。

 佐藤さんがかつてブラジルの日系通信社の東京支局長をしていて、当時、田中角栄のインタビューをしたことは前々からうかがっていたので、さっそく目を通してみると、(タイトルの「最後」のではなくて)最初のインタビューは、金脈問題で総理大臣を辞した後は長い間マスメディアのインタビューに応じてこなかった角栄が、活字メディアとしては初めて応じたのが、外国メディアである佐藤さんの1980年12月16日のインタビューなのだそうです。
(取材申し込みに行った佐藤さんと、有名な早坂秘書とのやりとりが面白いのですが、それは、原典の4ページをお読みください。)

■そのときの…

角栄の話の中で、とくに興味を引いたのは前書き7ページの以下の件でした。

ブラジルの通信社によるインタビューですので、佐藤さんは、角栄が1974年にブラジルを公式訪問したときの話題から始めたのですが、角栄はおだやかな口調でこう話したそうです。

「私はブラジルという国にとっても親しみを持っているんです。これは少年時代にアマゾン雄飛を真剣に考えた頃からの感情です。ですからブラジル訪問の時もあのアマゾンの国に来たんだという気持ちでいっぱいでした。あの時は時間がなくてアマゾンには行けませんでしたが、サンパウロからワシントンヘ向う途中、大アマゾンを空からまたぐことができました。 その時、 これで一生のうちの一つの夢が実現したんだなあという思いに浸ったも のです。」

■角栄は…

大正7年生まれ。既報のとおり日本の会社/機関がアマゾン地方の開拓に着手したのが昭和初めですので、まさにその少年期と一致しています。

 とはいえ、今のようなテレビも(もちろんインターネットも)無く、情報チャンネルが限られているこの時代。角栄が、何を読み、あるいは聞いて(ブラジルではなく、とりわけ)アマゾンへのあこがれを持ったのかについては、興味が持たれます。

 とくに、昭和初期、日本国民の興味はどちらかといえば満州に向いていましたし、ブラジルはともかくアマゾンに関する情報は、比較的限られていました(もっとも、角栄は生まれも育ちも新潟ですので「寒いところはいや」だったのかもしれませんが)。

 その中で「あるいはこの種のメディアだったのかも」と考えられるのが、
・比較的高価な単行本でも
・頒布先の限られている海外移民情報専門の雑誌でも
なく、先ごろ入手した

雑誌「科学畫報」昭和5年11月号(科学画報社)

 
 

のような雑誌記事(比佐衛も座談会に加わっている)、
 
「拓け南米の別天地常春の国ブラジル : 各方面の権威者を集めた本社主催『移民座談会』」(東京日日新聞1932.3.2-1932.3.21 )
のような一般紙の記事
 
(当時は、雑誌も新聞も漢字には原則としてルビが振ってあったので、子供でも読むだけは読める。)
 
あるいはラジオ放送だったのではないかと思われます。
(比佐衛もアマゾンを下った第2回目の南北アメリカ大陸視察から昭和4年3月に帰国後、東京や仙台などでラジオ番組に出演して旅行談を披露している。)
 
 この点に関しては、角栄に限らず、アマゾンの情報が日本でどのように伝播していたのかに関わる問題ですので、今後機会をみて細かく調べてみたいと思います。


■この記事は…

1981年元旦の「パウリスタ新聞」*に掲載されたそうです。

* 1947年1月創立。1998年3月に、日伯毎日新聞と合併して、現在はニッケイ新聞となっている(Wiki:邦字新聞)

【追記】2017/08/03

 昨8月2日、佐藤さんから、当のパウリスタ新聞の記事(7963号6・7面)をお借りしてきた。

 角栄によるアマゾンへの言及は、インタビューの終わり近くにもあって

(アマゾンを遡りたいという)「…夢はぜひ実現させるつもりです。アマゾンは大河だから大きな船で遡ることができます。しかし船着き場をつくるのが大変だから、錨を降ろして消防自動車のハシゴ車のようなものを横にスーツと出して接岸するのがいいとか、かての小さな海防艦のようなもので遡ってみたい。とかこれでもいろいろと研究しているのです。いずれにしてもあと十年ぐらいは働かされそうだからその間にはいくつもりですよ。」

と、船の接岸方法は「少年の夢」そのもの。

 角栄の「アマゾンへの憧れ」なるものが、単なるブラジルの通信社へのリップサービスではなくて、本当に少年期に始っていたらしいことがわかります。

【追々記】2017/08/16

パウリスタ新聞の創始者は、

蛭田徳彌
http://www.akihaku.jp/kannai/senkaku/PDF/417.pdf
という人なのですが、なんと、海外植民学校の出身者*であることがわかりました。
http://www.nikkeyshimbun.jp/nikkey/html/show/120613-71colonia.html

改めて、校友会名簿(昭和14年2月編纂)をみると、確かに、記載がありました。


*大熊智之氏の調査では、専攻科・大正11年度卒

【余談の余談】
■邦字紙といえば…

先日、ブラジルの戦前の邦字紙を閲覧できるところがないかと探してみたところ…

横浜中央図書館・本館
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/

にあるマイクロフィルム

で閲覧できることがわかりました(残念ながらパウリスタ新聞はありませんが)。

2017年2月1日水曜日

卒業生「大島芳春」の子孫

■たまたま…

家内の仕事の参考資料にと、1月16日放送の

NHK総合テレビ
プロフェッショナル 仕事の流儀 第313回
「建物を変える、街が変わる」
http://www.nhk.or.jp/professional/2017/0116/index.html

を留守録していたのだが…

 その翌日、まだ再生もしていないうちに、大熊智之氏からびっくりするようなメールが届いた。
 
■いわく…

この番組の主人公の、大島芳彦氏という建築家は、植民學校の卒業生の大島芳春という人物(以下、物故者は敬称略)のお孫さんではないか、とのこと。

 大熊氏の指摘どおり、当方が昨年発掘した、(公社)全日本不動産協会東京都支部の中野・杉並支部の会報「連帯」56号(2006年11月・刊。以下「連帯」)
http://www.ajrens.com/rentai/56/index.html
に登場する(pp.3-7)大島土地建設株式会社のいわば「3代目」と、名前も業務内容もぴったり一致している。

■この会社は…

植民学校の正課を大正12年に卒業した*1大島芳春が、その後、早稲田の専門学校に進み、在学中から不動産取引業を手掛け始め、越谷での東洋土地を経て、東京・中野に興した会社である*2

 この会社が成功した要因の一つは「庶民でも持てる住宅」を目指し、小規模な宅地や建売住宅を業務の中心に据えたところにあったようで、小規模すぎて防火上の観点から好ましくないとして警視庁からストップがかかったこともあったらしい*3

*1 出身者名簿【大熊文献】
*2 ブログ「資格雑誌『不動産受験新報』のフレッシュ&リラックス情報」
  不動産受験新報2007年10月号 インスペクション 不動産調査 不動産業の歴史 第6回
  http://blog.goo.ne.jp/f-jukensinpo/e/0bef9cea6ad1762ea6d7b7f8111cf150

  なお、冒頭に「北海道江別出身」というのは誤りで(植民學校創立時の講師であり、その母体だった植民教育會の理事でもあった大島喜一が江別出身なので、一時は2人の大島が縁戚なのかとかなりの混乱が生じた)、実際は、天塩の出身(後記「今様桃太郎外伝」による)。おそらく、記事の取材時に「遠別」というのを聞き間違えたと思われる。
*3 「連帯」p.5。なお、戦前の警察は内務省隷下の出先機関として、現在でいえば、警察のほか保健所や建築確認機関の機能も有していた 。

■大島芳春は…

卒業後、まるで別の世界に行ったにもかかわらず*4、植民學校の同窓会(「校友会」という)については大変協力的だったようで、昭和37年発行の校友会〔日〕誌「植民」6号*5を見ても、南米からの校友の帰国時などには、その歓迎会の会場に会社の会議室を提供し、自らも出席している。



校友会〔日〕誌「植民」6号口絵写真中
「伯国・五十幡直義・崎山盛繁両氏歓迎会 3/24 "1962 於大島氏事務所」
前列左から3人目が大島芳春。その右が崎山盛繁
 

*4 本人は、折しも植民學校卒業の年「東京が例の大震災で灰炉と化した大きな焼野原を見て」取り組むべき地は「南米もさることながら現実我が脚下にある」と「翻然として悟」ったとしている(「今様桃太郎外伝」校友会〔日〕誌「植民」3号pp.59-61【大熊文献】)
*5 松原征男氏・蔵

■先の「連帯」の記事中で…

インタビュアーが「芳彦氏はお爺様に似ていらっしゃいますね」と発言しているが*6、確かに芳彦氏の風貌には、大島芳春の面影がある。

植民〔日〕6号掲載の大島土地建設の広告

が、何よりも似ているのは、ユニークな視点で新しい領域を切り拓いていくところにある。
 あるいは、これも植民學校が祖父大島芳春に伝えた「開拓者精神」の遺産なのかもしれない。
 
*6 「連帯」p.5

 

2016年12月30日金曜日

【資料】アマゾン拓殖のための日本の会社/機関の概要〔伯剌西爾年鑑より〕

【細かい経過を…】

書き出すとキリがないので、そちらは、研究誌用にこれからまとめるものを将来お読みいただくとして、昭和初期に、現地の州政府(パラー州とアマゾナス州)の要請に応じて、アマゾン各地に日本からの移民のための移住地を建設した、3社/機関の概要を、入手したばかりの、伯剌西爾年鑑から抜粋しておくことにする。

 実は、これは、ここ2年ほど前から欲しくなっていたデータで、これらの移住地は、戦後のような棄民、つまり「何もないところに日本国民を放り出す」ようなものとは一線を画しているもので、従前のドイツの方式に倣って、あらかじめ各専門領域の専門家で構成された調査団を送って移住地選定のための調査を行い、その後、まずは会社/機関の関係者が現地に入り、本部の建物、移住者のための仮宿泊所、医療機関(病院・診療所)、農業試験場、小学校、主要道路などを建築・開鑿したうえで、移住者を受け入れていた(すくなくとも、その上で受け入れようとしていた)。

 その会社/機関が、どの程度まで、これらのインフラを(いわゆるソフト面まで含めて)整備していたのかには、当然ながら差があって*、それぞれに、断片的な2次資料はあるもののまとまりを欠いていて、まとまった統一的な情報を入手するには至っていなかった。

*一言でいえば、資金の枯渇や会社内のトラブルなどで途半ばで終わったのが後述の「アマ興」、病院医師による巡回医療や気象台まで作るなど最も徹底していたのが同じく「アマ産」といえる。

 入手した伯剌西爾年鑑のpp.83~85に、この3者、つまり(現地での着手順で)
・アマゾン興業〔通称「アマ興」〕
・南米拓殖株式会社〔同「南拓」〕
・アマゾニア産業研究所(後に「アマゾニア産業株式会社」)〔同「アマ産」〕
の昭和8年当時の状況(ただし、アマ興はすでに機能不全に陥っていた)が、以下のとおり一覧できた。(文中「|」は、引用者挿入の改行を示す)

アマゾン興業株式會社

昭和三年九月の創立にかヽり、十月ブラジル國アマゾナス州政府と土地二萬五千町歩のコンセッション契約を締結、マウエス郡に事業地を獲得した、|
土地は南緯四度廿分、西徑五七度四十分に當り、アマゾナス河の支流マウエス流域にある、|
同社事業の特色は。會社自ら直營事業により大に収益を計ると共に、植民に對しては、土地は勿論其の生産物から厘毫の利益も取らぬ點にある、即ち入植者は總て株主中から選び、一口二十株(一株二十五圓二十株金五百圓拂込)の株主に對し、一耕作単位二十五町歩を無償譲渡し各自の自由耕作に委せその収益は全部各自の所得になるのであって、従って入植株主は利益配當を受ける外自己の努力次第で多大の収益を得る譚で、之は同社が組合の性質を加[え]て相互主義に立つものと云ふべきである、|
株主は満十八歳以上五十歳以下の男子単獨者でも二名以上團結して一團となる場合(内少く共一名は同社の株主名義人たるを要す)叉満十二歳以上の子女なき夫婦者に對しても、旅券下附に就ては特に外務省で便宜を與へ更に拓務省の渡航費補助の特典が與へられて居る、及滿十八歳以下と滿五十歳以上の男女子でも、家族として同伴する場合ならば、旅券及補助金に關し同様の特典がある、|
尚同社はアマゾナス州政府との特約により同社直營部及植民者の生産物に對しては向ふ十年間免税の特典がある、入植を希望せぬ株主は將來に向って其の權利を保留する事が出來る事になつてゐる、|
事業は既に百數十町歩の開墾栽培を終り、主としてグヮラナ、米、アバカシイ、マンジオカを栽培し、精米所、米籾倉庫、診療所學校、教會、集會所等の施設が備へられ、植民は既に昭和六年末に於て百十八名に達してゐるが、未だ創業期の事とて見るべきものに無い

本社 東京市丸ノ内海上ビル内
専務取締役 澤柳猛雄氏


南米拓植株式會社

昭和三年資本金壹千萬圓を以て設立された鐘紡系の會社である、その具體的に事業の進捗を見たのは昭和四年三月以降であって、ブラジル國パラー州アカラ郡にアカラ植民地、モンテ・アングレ植民地、カスタニヤール米作試驗所を設け、總面積一、〇三〇、〇〇〇町歩の地に拓殖事業を行はうと云ふ目的である、|
直接開拓の衝に當た同社支店はベレム市にあり、支店事務所兼倉庫、移民宿泊所(ベツド三百備付)及附属桟橋は昭和四年八月末に完成を見た、|
アカラ植民地は同年九月から建設に着手されその上陸地點たるトメアスーには棧橋、事務所、社員合宿所、物品供給所、病院、修繕舎、製材所、移民宿泊所、倉庫等の設備があり、道路約百基米の開鑿も竣工し既に自動車等の運轉も開始されて居るし各河川を利用する交通と相俟つて至極便利である、ベレンの本據まで八十哩気候は日中華氏九〇度が超ゆる事稀で至って凌ぎ易い、既に開拓された面積約二千五百町歩、入植者昭和六年度末で一〇一三名(經營植民地全部を合し)に達して居る、|
トメアスー根據地には病床五十を有する病院を建設し日本人醫師二名薬剤士一名其他看護婦數名を常備し植民地内にニケの診療所を設け衛生上萬全を期して居る、叉現在第一第二小學校を開き邦人及ブラジル人数師をして教育に從事せしめ、其他公會堂、日用品販賣所、製材所、鐵工所、農業倉庫、郵便局、無線電信所等の文化設備も完成を見た、|
同植民地主要生産物はカカオ、ピメンタ・ド・レイノ(胡椒)、棉花、米であつて成績見るべきものがある、|
同社は是迄分益制度によって經營を進めて居たが今年(昭和七年度)からはコロノ制度を施行すると云ふ、即ち植民者を希望に従って二分し、一に獨立植民とも云ふべく道路付森林地二十五町歩を入植當初より買受け、會社の指導と保護の下に獨立して農業を營む者で、他は所謂コロノとして會社直營の農場に入植しカカオの請負耕作を爲す植民である、地價は一町歩につき四〇[金千]乃至六〇[金千]*、自作農奨勵のため低廉ならしめて居る、|
将來の計畫としては、森林生産物中良材フレージョ、パウ・サント、パウ・ローシヨ、パウ・アマレーロ等の輸出、樹脂、カスタニア(パラー栗)、パウ・ローザ(香料)、其他植物性脂油の精製事業、アマゾン漁業、鑛業特に石油等に向って鋭意開拓の歩を進める筈であると云ふ

本社 東京府下隅田町隅田一六一二番地 鐘淵紡績株式會社内
社長 福原八郎氏
支店 Bele'm, Para',Brasil


*[金千]=ミルレース
 http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/11/5/nihon-no-kyouiku/

アマゾニア産業研究所

昭和五年豫て調査研究の結果開拓の準備を進めつゝあった上塚司氏(現大藏參與官)を主領とするアマゾン調査團一行十四名(在伯者を加[え]て實は二十二名)は、同年十月十八日アマゾナス州首都マナオスに於て、ヴィラ・バチスタの現在同所所有地の賣買假契約締結を爲し、越[え]て二十一日現地に於てアゾニア産業研究所の立柱式並に斧下式を兼ねた入植祭を行ひ、茲に同所の創立と開發の業が創められ、孜々營々今日に及んで居る|
同研究所開設當初の宣言には次の如き意味即ち
 将來我が大和民族が此の地に來り開拓し、栽培し、新社會を作り、
 新文明を樹立する上に寄與せんとして建設されたものであつて、更
 に世界文化の發達、人類福祉の増進に貢献せんことを期し|
 云々
とあり、此の大抱負を経綸せん爲めに大略左の事業を行ふ計畫であると云ふ
一、アマゾナスに於ける農産、林産
  水産、鑛産、地質、気象、保健衛生其他の調査研究
二、農産物の試作栽培
三、實業練習所の經營
四、醫院
五、氣象觀測所
六、博物館
七、各種調査報告書並に月報の發行
更に兼營事業として當分の間
一、農園の經營
二、製材所精米所及發電所の経營
三、林産及水産事業の經營
四、運輪業の經營
五、各種生産物の加工販賣
六、移民収容所の經營
等の諸事業を行ふ筈で、現在では既に附属實業練習所が設置され、農作物の試作栽培、氣象の観測、衛生保健の諸調査を開始して相當の成績を擧げて居る、|
所有土地の廣袤壹百万エクターレス、之が圓滑にして統制ある經營を行ふ爲めには人材を要すと云ふので、既に同研究所開設以前より國士館高等拓植學校(校長上塚司氏)なる教育機關を設け有為の青年を薫陶して之を植民地に送り出す事としてゐる、昨六年四月第一回卒業生を、更に第二回卒業生を今七年四月渡伯入植せしめた
 (同校は七年四月財團法人として獨立、東京高等拓植學校*と改稱)
最近更に精米、製粉、製材、發電等の諸設備が完成し運輸交通の方面にも着々設備が備へられたと云ふ

名稱 アマゾニア産業研究所
     INSTITUTO AMAZONIA
所在地 Villa Batista, W. Parintins, E. de Amazonas
東京本部 東京市麹町區内幸町一 大阪ビル内
所長 上塚司氏


所有地地域及び面積
東 Rio Manuru
西 Rio Maues        }四〇万町歩
北 Parama de Ramos
Tabocal 地方       二〇万町歩
Carvalho 地方       一〇万町歩
東 Rio Maues
                     }三〇万町歩
西 Parama do Uraria


*実際には、川崎を校地としたので、「日本高等拓植學校」(通称「高拓」)と称した。
 この高拓の卒業生「Koutakusei」の活躍については、現地語になっているほどで
 残る情報量も多いが、とりあえず
 http://www.amazonkoutakukai.com/
 は、参照不可欠。

めずらしい、アマゾン拓殖三巨頭の写真



前列左から、「アマ興」専務取締役澤柳猛雄、「南拓」社長福原八郎、「アマ産」所長上塚司
上塚芳郎/中野順夫「上塚司のアマゾン開拓事業」上塚芳郎/2013年・刊 p.094 より転載

【資料】1933年伯剌西爾年鑑

【ブラジル移民が…】

公式に開始されたのが、1908(明治41)年。いわゆる「笠戸丸移民」からで、781人の移民者を乗せた同船が神戸を出港してから約2月の航海を終えて、サントス港についた6月18日を、ブラジル側では「日本人移民の日」、日本側では「海外移住の日」と呼んでいる。
http://www.ndl.go.jp/brasil/column/kasatomaru.html



 この本

 
は、それから4半世紀となるのを記念して、1933年にブラジルの伯剌西爾時報社が編集・発行したデータブック。
 
(なお、目次は、国会図書館のここ
で確認可能)
 
 
定価欄の「金へんに千」はブラジルでの「ミル」の当て字

 
 したがって「年鑑」というのはあまり正確ではなく、「日系伯剌西爾大全」とでもいうべき内容の本である。
 
 ネットオークションでは、年末やお盆どきには、「お化け」が出ることが結構多いのだが、これも、その典型。
 普段あまり使わないキーワードで検索したら、ひょっこりと、この本が破格の価格で出品されていて、若干競ったものの無事に落札できた。
 
 昭和の8年、大きく括って昭和0年代という時期は、日本の会社・機関が一斉に北部のアマゾン河の流域の開拓に着手した時期で、崎山比佐衛がアマゾナス州マウエスに一家をあげて移住したのも昭和7年。
 
 したがって、この本には、アマゾン河流域の情報はまだ少なく、どうしても、南部とりわけ「聖市」ことサンパウロとその西の内陸地方のものが中心となるのだが、それでも、ここ数年間探していた情報が次々に発見できた。
 
 とりわけ、南部の在住者にほぼ限られるが、巻末の5分の2近くを占める名簿が圧巻で、自営農や商人、職人などだけでなく、コロノ、さらには農勞と呼ばれていた純粋な雇われ人も網羅していて、かねて消息を探していた人物の情報も見つけることができた。
 
 ただ、当時の慣例らしく、サンパウロなど海岸の大都市から内陸部に向かっている鉄道の路線別に、始発の都市から近い駅の順に日本人の移住地がリストアップされているので、そもそもこちらには土地観がないうえ、今では鉄道がなくなっているためにgoogle map は使えず、この80年の間に放棄された土地も多いようなので、目的の移住地を探し出すのには(後記のように本が「崩壊」してゆくのも手伝って)、意外に手間がかかる。
 
 「銀ブラ移民」で有名なアリアンサと名の付く植民地を例にとると、
「ノロエステ線」沿線で
p.151から始まる「リンス駅」の項に
・アリアンサ第一區植民地 pp.179~183
・アリアンサ・トビ三區 pp.183~184
その後、いくつかの植民地あるいは耕地と呼ばれていた地域が続き
p.191から始まる「プロミッソン驛町」の項に
・第三アリアンサ移住地 pp.273~276
・第二アリアンサ移住地 pp.276~278
・第一アリアンサ移住地 pp.279~284
・ノーヴァ・アリアンサ移住地 p.284
という順にリストアップされている(目的の人物は、第一アリアンサの「ドン尻」のp.284でようやく見つけ出した)。
 
 【余談】
 ただし、この本、さっそく、複合機で50ページほどpdf化したところ、紙質が悪いのだろうが、あちらこちらがバラバラとフレーク状に崩れてゆく。昭和8年出版ということなので80年程度経過した本ではあるが、日本のものでは綴じがはずれることはよくあるものの、ここまで風化して「本が崩壊してゆく」ようなことはまず起こらない(前のアーティクルの「雑誌 ブラジル 昭和8年3月号」は全く同時代、しかも「たかが情報雑誌」なのだが同様である)
 
 国会図書館のデジタルライブラリの本の表紙に「電子複写禁止」とスタンプの押されているものを目にするが、この本のような「崩壊型」ばかりではないのだろうが、「なるほどこういうこともあるんだ」と納得した。
 
  

2016年12月28日水曜日

【資料】雑誌「ブラジル」の植民学校紹介記事

雑誌「ブラジル」(日伯協会・発行)の昭和8年3月号に





「特集『学校紹介』」と題する、ブラジル国内の学校と日本内地にある植民学校の紹介記事中、そのpp.30~32に、おそらく当時の海外植民學校の学校案内を基にしたと思われる、同校の紹介記事が掲載されています。




 この特集記事では、日本の植民学校として、そのほかに
・日本高等拓殖學校
  アマゾニア産業研究所附属 實業練習所
・力行會海外學校
・廣島海外學校
・日本植民學校
が紹介されています。




2016年12月23日金曜日

柳田國男の「移民論」1

[ひょんなことから…]

ciniiで見つかった、我らが?根川先生の

根川幸男「忘れられた日本人-民俗学のフィールドとしてのブラジル日系社会-」
(『現代民俗学研究』第 1 号〔2009 年 3 月〕pp.65~77)
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=38870&item_no=1&page_id=13&block_id=83

を読んだところ、かの柳田國男が、移民に関して、かなりのヴォリュームの論考を著わしていたことがわかり、まずは、手許の定本と文庫版の全集の中から、下記の論考を読んでみました。
 考えてみると、後記のとおり、大正9年以降、朝日新聞の今でいえば論説委員を務めていたので、当時の時事問題については、当初は元農商務省や内閣の高級官僚、その後には、国会の貴族院の書記官長だったこともあって、相当の関心があったと思われるので、別に意外なことともいえません。
 我が国の朝鮮併合とか満州への進出に関わるばかりでなく、今現在の欧米での移民や難民の流入にともなう摩擦などにも通底する問題が、すでに、当時から世界中で生じていたことがわかります。やはり「古典に学ぶ」ことは大事です。

移民政策と生活安定[抜粋]
   四 何うすれば好いか
 移民不振の根本の原因に、教育の不備があったことは確かであるが、しかもその不備は前にいったやうな単純のものゝみではない。今一つ背後に更に困難なる經濟教育の改良がある。これを完成するためには愈ゝ國民の總努力の必要があるのである。
 日本の移民は至って短い歴史しかもってゐないが、これによって養はれた我々の概念では、移民の成功は所謂錦を着て故郷に還るにあった。仮令本人は早く還ることが出來ずとも、どし/\と郷里へ金を送って、親族を喜ばせたり土地を買込んだりするのを、目的として人は出て往った。今年のやうに對外爲替の相揚が惡いと、殊に移民の本國送金が增して来る。貿易尻の勘定にはその方が都合がよいので、世間でも好感を以て之を迎へる。それから叉色々の品物を本國から取寄せる。太平洋岸の米國では、鯛の刺身まで日本から買って食って居る。是が叉ひどく出先の國の者に気になることらしい。支那人は柔和で辛抱強く、或點は移民として我々よりも勝って居るが、是をやる爲に何れの國でも嫌はれた。本國側から見れば、是れ愛郷心の登露であり、昔を忘れぬ人情の敦厚を意味するのであるが、之を迎へた國としては、いっ迄も他人を家に置いた感じをするから、親みが少く誤解か多く、所謂市民権などは出來るだけ制限して與へまいとする。相手が米人の如き気儘な者で無くとも、問題と妨碍とはどうしても起り易いのである。 其上に斯ういふ出稼式の移往労働には、どうしても向かぬ地方が次第に多くなって來る。國にはそれ/゛\生活の標準があって、勞働の報酬率の如きもそれに基いて自然にきまる。外國から來て働いて金を残さうとするには、それよりも低い暮しを爲し得るに限る。早い話が朝鮮人は内地に來るて貯蓄を爲し得るが、内地から朝鮮へ行っても單なる勞働では金を残すことが出來ない。従って今の日本人がそんな國を捜すとなれば、カリフォルニヤヘでも行くの他はない。彼地在來の労備者に取ってば、安い暮しをして略ゝ同じ働きの出來る出稼人は、何よりも畏ろしい競争者である故に、どんな無理をしても之を排斥するので、所謂白人濠洲主義の移民法なども公々然と主旨を言明して居る。あゝいふ國でも企業者資本家の側では、却って有色人の出稼ぎを歓迎して居るが、政治の上に勞働者の力が行はれて居るから、今のまゝでは排斥を免れることは難い。
 さうすると、第二の選擇は二つしか無い。自分等よりも生活の低い國に往って、何か別方法で金を儲ける工夫をするか、さうでなければ、従來の出稼式を改めて、土着してしまふ気になるかの他はない。支那人も追々に生活を改良して、今では決して最下等の暮しでない。それに南洋の各地も次第に人口が多くなって、支那人よりも今一段と安い労働者の居る處が幾らもある。さういふ地方に出稼しては、金をためて還ることも出來ぬわけだが、支那人は極端に辛抱強く、無理な倹約をして小金が出來ると、それに由って商賣に移って、永い間には産を爲すのである。ところがそれだけの根氣は竝の日本人に無いから、或は危險を侵し或は無理をして、荒い利得を早くつかまうとする。そこで滿洲や朝鮮などで、地みちな移住者は少しも増加せず誰も彼も官憲や大會社を利用して、割のよい仕事を探すか、さうでなければ此様な人を相手に、共喰ひをするやうな連中ばかりが横行をして居る有様であり、北海道や樺太では、いつ迄も土地の開發が思ふやうに進まぬと云ふ結果を見るのである。自國の領土内ならまだ何とかなるが、外國に出かけてそんな濡手で粟と云ふ成功が出來る筈がない。また假に出來るにしても、其様なことに向く者は日本に幾らも居らず、眞面目な移民にはその眞似は出來ない。そこで米國がたった一つの行先で、その昨年の排日が、我々の爲には大打撃のやうに感ぜられ、近隣の國土はこれ程廣いにも拘はらず、移民は八方塞がりの行詰りの如く感ぜられるのである。
 前にも中す如く、〔増〕加した人口は、出來ることなら國内で職を與へ國内で養ひたい。それがどうしても自由競争の壓迫を忍びかねて、外へ出た方がよいと考へるに至ったのである。もう其上に彼等に餘分の任務を負はせるのは無理である。永い間には追々出先の生活に入って、其國の人になることを覺悟させねばならぬ。それを腰掛にして金を作り、再び郷里に持還らうといふ目的をもって行くと、結局はごく少數の成功の爲に多数が危地を踏んで難澁をすることを、勤めた結果を生ずるのである。
 日本人は南方の人種で、夏の濕気の多い熱さに馴れ、歐洲人とちがって足を沾すことを畏れず、熱帯作物の生産には天然の適性を備へてゐる。近來惡くなったなどといふ者はあるが、その農夫には澤山の優越せる性質がある。一方に世界的なる穀物の不足は來らんとし、土地の未だ利用せられざる大面積は、今なほ經營者を待ってゐる姿である。かうしてなほこの間に有無相通の行はれないのは、他にも若干の原因があるか知らぬが、一つには十年、十五年の短期日に、成功して還って來ようといふ注文があるからである。是は實のところ眞の移民では無い。生活は至って樂でも、物價は日本のやうに高い國は、この近所にはない。物の安いのは好いことだが、其代りには多くは収入も少い。土着をして繁榮することは出來ても、財産を金に代へて持って還らうとすれば僅になってしまふ。斯ういふ理窟を考へて最初から其積りで、出て行かうといふ者もないのではあるまいが、如何にせん世間が移住を以て、桃太郎の遠征の如く考へ、非常に大きな成績を期待し黄金發見時代の如き痛快なる金儲けがないなら出ても馬鹿々々しいやうにに青年を教育して居るので、早今日ではよほど内外に弊害を生じ、此上は随分苦しい實驗をして見ないと、局面が展開せぬ有様に迄迫って居る。自由競争は強い小賢しい者には結構だが、分の惡い立場に居る者には、眞に気の毒である。限ある國の富を〔増〕加する一方の國民で分配しようとすれば、同胞の國にもにも爭ひがあり、且つ其爭いが年々に悪化する。國家として力を施さずには居られぬ所以である。
 現在の日本で最も豊かなる産物は、人の智慧と努力である。之を利用すべき機會は政治家の不注意に由って諸方面に塞がれて居る。物價の水準を高くして、輸出用の生産を困難にして居ることは其一つである。米國から小楊枝を、独逸から下駄の臺を輸入して、尚引合ふやうな物價では、手剰って心之を利用する途はあるまい。之を國外で働かせて見ようにも、この出稼根性では金を溜に行く處がない。従って僅かのこすい男が山勘の企業ばかりに没頭して、結局は日本人全體の聾價を、豫め傷つけて居るのだから話にならぬ。其弊害の根本に心付いて、早く改良の方法を考へる義務のある者が、それを捨て置くばかりか、寧ろ正しくない連中を世話して居る。物價の方はどうして引下げるかと言へば、需要を減少して下げて行くといふ。其減少すべき需要とは何であるか。奢侈品課税などで抑制し得るものはほんの小部分で、その他は主として日用品ではないか、即ち我々の小兒が餓ゑ、女房が寒がることを意味するのではないか。如何にも無情なる物價對策と評せねばならぬ。心ある者は、斯の如き無責任を宥恕してはならぬ。一日も早く各自の研究し得たる所を以て、我々の代表者を訓育し指導するやうに心掛け、標語ばかりの移民政策や、内容の乏しい生活安定策を以て一時を糊塗しようとする者を、警戒せねばならぬと思ふ。


(「定本 柳田國男」29巻pp.72~82。初出:大正14年6月「成人教育」*

*柳田は、1919年(大正8年)貴族院書記官長を辞任し翌1920年(大正9年) 東京朝日新聞社客員(現代でいえば論説委員)となったが、1921年(大正10年)から、おそらく国際連盟事務次長であった新渡戸稲造の推挙で ジュネーヴの国際連盟委任統治委員を1923年(大正12年)まで務めた。
 したがって、(もともと、南方熊楠による神社合祀への反対運動へのサポートなど、官僚としては「突き抜けている」側面のあった(やや乱暴に括れば「マイルドな『国士』」ともいえる)
柳田ではあるが)この執筆の当時、朝日新聞社客員かつ慶應義塾大学講師(民間伝承論)という純粋に民間人の立場にあった。

2016年12月14日水曜日

島崎藤村「南米移民見聞録」

国会図書館の…

デジタルコレクションで

標題の本
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023252

を見つけました。

これは…

昭和11(1936)年6月、ブェノスアイレスで開催された世界ペンクラブの第14回総会に日本ベンクラブ代表として出席する藤村が、外務省から依頼された、ブラジルでの「在留邦人社会の実情視察、殊に同胞の情操の涵養、思想の啓発等に就いての研究」の報告書にあたるものです。

 昭和11(1936)年7月16日大阪商船の「りおでじゃねいろ丸」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451604
で神戸を出港しサントスを経てブェノスアイレスでの大会終了後、10月始めにサントスからブラジルに入り、それから9日間、ブラジル、主としてサンパウロとリオデジャネイロ周辺を視察しています*

http://www.nikkeyshimbun.jp/2016/160824-73colonia.html

■この本の性格上…

当然ながら、そのブラジル視察についての36ページ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023252/23
以下の部分が、この本のいわば本体なのですが、むしろ注目されるのは、10ページ、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023252/10
の「船中の移民の生活」以下の、文字通り、同船していたブラジルへの移民者たちの観察録の部分で、これは、船中や上陸後の移民者たちの、大作家の筆になる客観的な記録*として貴重なものだと思います。

*もちろん
 移民者による「体験記」は数多く目にするし、

 移民監督側の視点によるものとしては、
 既報の
 辻小太郎の「ブラジルの同胞を訪ねて」(日伯協会/S05・刊)
  [S03/07/25 神戸出港の「備後丸」]
 があり、
 石川達三の「蒼氓」(改造社/S10・刊) や
 その第2・3部にあたる「南海航路」「聲なき民」(新潮社/S23?)
 http://edcutokyo.blogspot.jp/2016/10/blog-post_21.html
  [S05/03/15 神戸出港の「らぷらた丸」]
 も、小説ではあるが、この範疇に入るだろう。

 しかし、第三者の目によるものとしては、

 戦前のものとしては標記の本
  [S11/07/16 神戸出港の「りおでじゃねいろ丸」]
 戦後のものとしては
 相田洋の「航跡」(日本放送出版協会/H15・刊)
  [S34/03/03 横浜出港の「あるぜんちな丸」]
 程度ではないだろうか。