2017年11月25日土曜日

池ノ上の「海外高等實務學校」

 ■この学校の…

帰趨については、研究誌の次号(7号)で採りあげる予定であるが、その池ノ上の海外植民学校跡への移転時期についての史料に乏しかったところ、思わぬところに史料が発見されたので、メモ代わりにここに採り上げることにした。

■海外植民學校の設立者は…

昭和12年4月に、実質的な創立者である崎山比佐衛から、ほぼ大正7年の創立時直後から講師として勤務し大正末ころからは主事あるいは校長代行を務めていた、いわば学校の城代家老である今井修一に変更され、さらに、その2年後の昭和14年に至って、当時、神田区淡路町にあった「海外高等實務學校」〔以下「実務学校」〕を運営していた飯泉孫次郎・良三兄弟に設立者が変更されている。

 この実務学校は、一時期は植民学校の校長を務めていた井上雅二が、昭和7年に「商業移民,農業移民の予備教育及び養成」を目的として設立した学校であり、とりわけ、同じく井上が設立した南洋協会の事実上の付属機関として南洋方面への商業移民の養成に力を入れていたので、当時の時点では、南米指向の植民学校と南洋指向の実務学校が事実上一体化することで、一応の補完効果が期待できたのではないかと思われる。

 そして、実務学校は、設立者変更申請と同時期に、校舎を従来の神田区淡路町から植民学校の本校舎に移転する認可申請をしている(植民学校は、従来の女子部の校舎を使用することになっている)のだが、この校舎の移転がそのころ実現した形跡がないのである。

 この学校が植民学校の場所に移転したことを示すのは、昭和19年に、定員250名の全寮制の学校として存在したという史料であり、昭和14年からこの間5年間の消息を明らかにする史料は見つかっていなかった。

■ところが…

最近になって入手した、世田谷区上町の同区立郷土資料館で、平成29年10月28日から12月3日まで開催されている特別展「地図でみる世田谷展」
の図録を見たところ、その【083】ページに掲載されている
東京急行電鉄新宿営業局「東京急行電鉄小田原線江ノ島線井ノ頭線沿線案内図」S17/05・刊
の解説文に

「前頁【081】【082】〔小田原急行鉄道「沿線案内 新宿小田急電車」S14〕に表示されていた軍事施設、工場等がこの案内からは消えている。…
 世田谷区域とその周辺では、第二陸軍病院分院、陸軍自動車学校が消え、陸軍獣医学校、駒場練兵場は、海外高等実務学校と農業教育専門学校に、帝大航空研究所が日本民藝館に置き換えられている。」

との記述があった。

 念のため、実際に世田谷区上町の郷土資料館に行き、図版の原本



2017年11月26日、世田谷区立郷土資料館で、原本を接写。


を見てみると、昭和14年の地図の右端下の「池之上」駅左の位置には、学校のやや南の世田谷区下代田(当時)にあった陸軍獣医学校が示されていたのが、いわゆる戦時改描*の一環として、絵によるマークはやや小ぶりの建物のそれに、その左脇の説明文の方は「陸軍獣医学校」から「海外高等實務学校」に書き換えられていることがわかる。





2017年11月26日、世田谷区立郷土資料館で、原本を接写。


























* http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000138824
 http://www.gsi.go.jp/common/000024734.pdf

■この時期の…

帝国陸軍撮影の空中写真では、
  • 昭和16年6月25日撮影のものでは建物の配置については従前と変化がなく、というよりも、むしろ敷地内の樹木が伸び放題にされて校舎がその中に埋まっているような状態であるのに対し、

国土地理院・蔵の帝國陸軍1941/06/25撮影空中写真〔95C3-C6-90

から抜粋し画像調整
中央やや上の学校敷地は、とくに右(西)半分が樹木に覆われている

  • 昭和19年12月23日撮影のそれでは樹木が大きく刈り払われているいえ、敷地の東端のやや北寄りに寄宿舎と思われる大きな建物が建っている

国土地理院・蔵の帝国陸軍1944/12/23撮影空中写真〔95C3-C6-90
を抜粋し画像調整
学校敷地の右端中央に新しい建物の屋根が白く写っている
ことがわかる。

■結局…

実務学校では、昭和14年に申請した校舎の移転はすぐには実行に移されず*、昭和16年度に敷地を整備して寄宿舎棟等を新築するなどして体勢を整備したうえで、同17年度からこの地に校舎を移したのではなかろうか。

*この間、拓務省「拓務要覧 昭和15年版」(財)日本拓殖協会/昭和16年9月・刊(国会図書館ID-以下「NDLID」-:1440163)のp.547でも、実務学校の所在地は「東京市神田區淡路町一ノ一」とされ(植民学校も同ページにリストアップされている)ていて、昭和14年版(NDLID:1462・982 p.564)、同13年版(NDLID:1452393 p.541)から変動がない。

2017年9月9日土曜日

【資料】ブラジル移住者データベース

■ブラジルへの…

移民者の消息、とくにその渡航年月日や乗った船あるいは本籍を調べるのに、従来は

国立国会図書館のデジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/
中の
「伯剌西爾行移民名簿」

の、
1908(明治41)年の笠戸丸
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994058
以降、
1941(昭和16)年のぶえのすあいれす丸〔第306回〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451876
までの移民記録*中から探し出していた。

 なお、この種のシリーズものの出版物の場合に作られていることが多い「まとめ」ページが、これらの記録にはなく、また、

索引〔ア-ソ〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2222419
索引〔タ-ワ〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2222607

はあるものの、各頭文字ごとに、渡航順に記載されているので、多かれ少なかれ「虱潰し」に探し出すしかなかったのである。

*したがって、業務(移民会社関係者を含む)や観光目的の渡航者は当然含まれないし、移民会社取扱い外の自費自由渡航者もリストアップされていない。

■今回…

ブラジルのサイトである
ブラジル移民資料館
http://www.museubunkyo.org.br/jp/index.htm
のWebページに
「足跡プロジェクト 移民船の乗船者名簿」
http://www.museubunkyo.org.br/ashiato/web2/imigrantes.asp
というデータベースが見つかった。

検索方法は下図のとおり


 


 なお
  • 情報の船名などの欄は、指定することで、いわゆるノイズを減らすことはできるが、指定が不可欠ではないので、単純に氏名欄に「名-氏」「名」「氏」のどれかをローマ字で入力して「Buscar」キーをクリックすればよい
  • データ表示画面から元の検索画面に戻るには、「[Sistema de Busca] の右下に表示される[Voltar]と書かれた矢印をクリックする(下図白〇)


■アタリを付ける意味で…

”Hisae Sakiyama”など何人かについて検索してみたが、戦前の移民者については、冒頭の「伯剌西爾行移民名簿」のデータに依拠しているようで(従って、原典同様に自由移民者は出てこない)、それに戦後再開後の移民者を追加したものと思われる。

 また、膨大なデータだけに、当然誤読もあり、たとえば比佐衛の次女「精子」さんは"KIYOKO"となっていて、あり得ない読み方ではないにしても、根拠はまだ見つかっていない。

 さらに、ローマ字表記の「ゆらぎ」、たとえば”Ueda”と”Uyeda”といった類も有るし、比佐衛自身もどこかで”Hisaye”と表記していたこともあるので、中間一致検索が可能なこともあって、最初はやや「手広く」検索をかけた方がよさそうである。

■あとは…

先の「伯剌西爾行移民名簿」から、"Navio"記載の船と、”Partida”記載の出港日から、該当のデータを探し当てることができるし、むしろ、何よりありがたいことは「データがない」ことを短時間で確認できるところにあるともいえる。

【余録】

なんだか趣旨がよくわからないが、突然検索の網にひっかかってきた

まず間違いなく崎山比佐衛の肖像
https://scontent.cdninstagram.com/Stalkture/s640x640/20901899_1509206295804213_7113645016857182208_n.jpg

どうやら、サンパウロ新聞2013年1月28日のこの
「2月28日まで開催中 「移民の肖像画展」開会式」
http://saopauloshimbun.com/2%E6%9C%8828%E6%97%A5%E3%81%BE%E3%81%A7%E9%96%8B%E5%82%AC%E4%B8%AD%E3%80%80%E3%80%8C%E7%A7%BB%E6%B0%91%E3%81%AE%E8%82%96%E5%83%8F%E7%94%BB%E5%B1%95%E3%80%8D%E9%96%8B%E4%BC%9A%E5%BC%8F/
記事の写真、左端の絵のクローズアップのようである。

【出典追記】

1954年 半田知雄* ブラジル日本文化資料館・蔵 の由

* http://www.gendaiza.org/aliansa/lib/13hand.html
  https://www.miuraz.co.jp/miurart/special/080720/index.html 参照


2017年8月27日日曜日

移民の嫁取り事情

■先日…

ネットオークションに、

「『植民』第8巻5(昭和4年5月)号」植民通信社・刊という雑誌が出品されていた。



■目次の…

の画像がなく、一種のギャンブルではあったのだが、国会図書館のデータベース
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1615581
で、従前みていた、この雑誌の書誌情報から推して、毎号160・70ページのうち、2つか3つは、少なくとも「読んでおいても損がない」記事があるようなので、落札してみた。

■届いた雑誌を…

みると、予測に違わず、「在伯コロノ生活の私より」と題する、コロノ、つまり、小作人ではなく、しかも単純な農業労働者でもない、いわば農作業の請負人の具体的な生活について、10ページに及ぶ詳細な記事があって、大満足。

 いずれは、研究誌なりこのブログなりで、その「成果」をおしらせするつもりだが、それはさておき。

■ざっと…

記事をいくつか拾い読みしてみると、独身で渡航した男子の「嫁探し」の深刻さが見えてくる。

 海外植民學校でも夫婦での移住を強く勧めていて(崎山の2度の海外視察で得たノウハウの一つといえる)、今大熊智之氏が探求しているが、学校の設立当初から移民を目指す女子にも門戸を開き、また、後には女子部を設立するなど、女子教育に力を入れていたし、上塚司の日本高等拓殖學校でも、一時は、学生の修了後、アマゾンへの出発前に長期の休暇を設けて「嫁探し」を「義務付け」るほどだった。

 ただ、当の本人にしてみれば、何分現地の情報に乏しい時代でもあり
「1人でさえ食ってゆけるかわからないのに、女房連れではどうなるかわからない」
という、ある意味で「ごもっとも」な発想と、とくに、これらの学校出身者の場合は単身での渡航でもパスポートを発行してもらえる*こともあって、単身で渡航することが多かったようである。

*ブラジルへの移民の場合、原則として夫婦のほかに親族の働き手が加わった家族移民である必要があった。
 慢性の人手不足にあったブラジルでは、とにかく1人でも多くの働き手が欲しかったせいである。
 そのような情勢だったので、夫婦であれば働き手が2人いることになるので、ともかくも農場での職が得られるチャンスがあったのに対し、単身者の場合は、雇い主にとては「仕事が気に入らないと、黙っていなくなってしまう」リスクが大きいこともあって、容易に職が得られなかったようである。

 実際、単身で渡航したものの、思うような職にありつけず、工場労働者になったり、さらには帰国した人も多かった一方、たとえば、自営業で、知恵才覚を働かせて、それなりの稼ぎができるようにようになった人も、当然いることはいたのだが…
 
 いくら稼いでも、現地の「きれいなおねいさん」に全て巻き上げられたり、また、現地の女性と結婚しても、文化の違いもあって「宵越しの金は持たない」妻によって稼ぎが消えてゆく、といった人も多かったのである。

■いきおい…

それなりの生活基盤のできた人は、配偶者として日本人女性を求める結果となる。

 ただ、「独身の日本人女性」となると、家族移民の一員として両親などと共に現地に渡った女性しかいないので、到底「需要は賄えない」(この雑誌の別の記事によると、結納金として、なんと渡航のための船賃の10倍にあたる3000円を用意する必要があったようである)。

 一方、日本の側でみても、単身で外国に渡ろうとする女性はそもそも少ないし、そのもともと数少ない女性も、家族の反対で実際に渡航する人数はさらに少なくなることになる。

■このような…

事情だったので、先見の明がある男子はなんとか渡航前に嫁取りをしようとし、また、渡航後、時間や金銭の余裕のできた男子は一時帰国して嫁探しをせざるを得なくなる。

 そのあたりの切実な事情が、この雑誌の「『植民』よろず案内」というページに如実に現れているので、ご紹介しておくことにした。

3段目の、アマ興移民予定の、後藤徳五郎は、実際にはブラジルに移民していない。



2017年5月23日火曜日

【余談】田中角栄とアマゾン

■知り合いの…

佐藤修さんが
「田中角栄 最後のインタビュー」文春新書1124/平成29年5月20日・刊
という本を書かれました。

 佐藤さんがかつてブラジルの日系通信社の東京支局長をしていて、当時、田中角栄のインタビューをしたことは前々からうかがっていたので、さっそく目を通してみると、(タイトルの「最後」のではなくて)最初のインタビューは、金脈問題で総理大臣を辞した後は長い間マスメディアのインタビューに応じてこなかった角栄が、活字メディアとしては初めて応じたのが、外国メディアである佐藤さんの1980年12月16日のインタビューなのだそうです。
(取材申し込みに行った佐藤さんと、有名な早坂秘書とのやりとりが面白いのですが、それは、原典の4ページをお読みください。)

■そのときの…

角栄の話の中で、とくに興味を引いたのは前書き7ページの以下の件でした。

ブラジルの通信社によるインタビューですので、佐藤さんは、角栄が1974年にブラジルを公式訪問したときの話題から始めたのですが、角栄はおだやかな口調でこう話したそうです。

「私はブラジルという国にとっても親しみを持っているんです。これは少年時代にアマゾン雄飛を真剣に考えた頃からの感情です。ですからブラジル訪問の時もあのアマゾンの国に来たんだという気持ちでいっぱいでした。あの時は時間がなくてアマゾンには行けませんでしたが、サンパウロからワシントンヘ向う途中、大アマゾンを空からまたぐことができました。 その時、 これで一生のうちの一つの夢が実現したんだなあという思いに浸ったも のです。」

■角栄は…

大正7年生まれ。既報のとおり日本の会社/機関がアマゾン地方の開拓に着手したのが昭和初めですので、まさにその少年期と一致しています

 とはいえ、今のようなテレビも(もちろんインターネットも)無く、情報チャンネルが限られているこの時代。角栄が、何を読み、あるいは聞いて(ブラジルではなく、とりわけ)アマゾンへのあこがれを持ったのかについては、興味が持たれます。

 とくに、昭和初期、日本国民の興味はどちらかといえば満州に向いていましたし、ブラジルはともかくアマゾンに関する情報は、比較的限られていました(もっとも、角栄は生まれも育ちも新潟ですので「寒いところはいや」だったのかもしれませんが)。

 その中で「あるいはこの種のメディアだったのかも」と考えられるのが、
・比較的高価な単行本でも
・頒布先の限られている海外移民情報専門の雑誌でも
なく、先ごろ入手した

雑誌「科学畫報」昭和5年11月号(科学画報社)

 
 

のような雑誌記事(比佐衛も座談会に加わっている)、
 
「拓け南米の別天地常春の国ブラジル : 各方面の権威者を集めた本社主催『移民座談会』」(東京日日新聞1932.3.2-1932.3.21 )
のような一般紙の記事
 
(当時は、雑誌も新聞も漢字には原則としてルビが振ってあったので、子供でも読むだけは読める。)
 
あるいはラジオ放送だったのではないかと思われます。
(比佐衛もアマゾンを下った第2回目の南北アメリカ大陸視察から昭和4年3月に帰国後、東京や仙台などでラジオ番組に出演して旅行談を披露している。)
 
 この点に関しては、角栄に限らず、アマゾンの情報が日本でどのように伝播していたのかに関わる問題ですので、今後機会をみて細かく調べてみたいと思います。


■この記事は…

1981年元旦の「パウリスタ新聞」*に掲載されたそうです。

* 1947年1月創立。1998年3月に、日伯毎日新聞と合併して、現在はニッケイ新聞となっている(Wiki:邦字新聞)

【追記】2017/08/03

 昨8月2日、佐藤さんから、当のパウリスタ新聞の記事(7963号6・7面)をお借りしてきた。

 角栄によるアマゾンへの言及は、インタビューの終わり近くにもあって

(アマゾンを遡りたいという)「…夢はぜひ実現させるつもりです。アマゾンは大河だから大きな船で遡ることができます。しかし船着き場をつくるのが大変だから、錨を降ろして消防自動車のハシゴ車のようなものを横にスーツと出して接岸するのがいいとか、かての小さな海防艦のようなもので遡ってみたい。とかこれでもいろいろと研究しているのです。いずれにしてもあと十年ぐらいは働かされそうだからその間にはいくつもりですよ。」

と、船の接岸方法は「少年の夢」そのもの。

 角栄の「アマゾンへの憧れ」なるものが、単なるブラジルの通信社へのリップサービスではなくて、本当に少年期に始っていたらしいことがわかります。

【追々記】2017/08/16

パウリスタ新聞の創始者は、

蛭田徳彌
http://www.akihaku.jp/kannai/senkaku/PDF/417.pdf
という人なのですが、なんと、海外植民学校の出身者*であることがわかりました。
http://www.nikkeyshimbun.jp/nikkey/html/show/120613-71colonia.html

改めて、校友会名簿(昭和14年2月編纂)をみると、確かに、記載がありました。


*大熊智之氏の調査では、専攻科・大正11年度卒

【余談の余談】
■邦字紙といえば…

先日、ブラジルの戦前の邦字紙を閲覧できるところがないかと探してみたところ…

横浜中央図書館・本館
http://www.city.yokohama.lg.jp/kyoiku/library/

にあるマイクロフィルム

で閲覧できることがわかりました(残念ながらパウリスタ新聞はありませんが)。

【追記】

佐藤さんがインタビューの冒頭に切り出した、角栄の1974年のブラジル訪問。

現在ベレン在住の堤剛太氏が、サンパウロ新聞の記者として取材していたのだそうです。


 世の中、というより地球は、広いようで狭いですね。本当に。

【資料映像】

新潟県南魚沼市浦佐駅東口の田中角栄像

2017年2月1日水曜日

卒業生「大島芳春」の子孫

■たまたま…

家内の仕事の参考資料にと、1月16日放送の

NHK総合テレビ
プロフェッショナル 仕事の流儀 第313回
「建物を変える、街が変わる」
http://www.nhk.or.jp/professional/2017/0116/index.html

を留守録していたのだが…

 その翌日、まだ再生もしていないうちに、大熊智之氏からびっくりするようなメールが届いた。
 
■いわく…

この番組の主人公の、大島芳彦氏という建築家は、植民學校の卒業生の大島芳春という人物(以下、物故者は敬称略)のお孫さんではないか、とのこと。

 大熊氏の指摘どおり、当方が昨年発掘した、(公社)全日本不動産協会東京都支部の中野・杉並支部の会報「連帯」56号(2006年11月・刊。以下「連帯」)
http://www.ajrens.com/rentai/56/index.html
に登場する(pp.3-7)大島土地建設株式会社のいわば「3代目」と、名前も業務内容もぴったり一致している。

■この会社は…

植民学校の正課を大正12年に卒業した*1大島芳春が、その後、早稲田の専門学校に進み、在学中から不動産取引業を手掛け始め、越谷での東洋土地を経て、東京・中野に興した会社である*2

 この会社が成功した要因の一つは「庶民でも持てる住宅」を目指し、小規模な宅地や建売住宅を業務の中心に据えたところにあったようで、小規模すぎて防火上の観点から好ましくないとして警視庁からストップがかかったこともあったらしい*3

*1 出身者名簿【大熊文献】
*2 ブログ「資格雑誌『不動産受験新報』のフレッシュ&リラックス情報」
  不動産受験新報2007年10月号 インスペクション 不動産調査 不動産業の歴史 第6回
  http://blog.goo.ne.jp/f-jukensinpo/e/0bef9cea6ad1762ea6d7b7f8111cf150

  なお、冒頭に「北海道江別出身」というのは誤りで(植民學校創立時の講師であり、その母体だった植民教育會の理事でもあった大島喜一が江別出身なので、一時は2人の大島が縁戚なのかとかなりの混乱が生じた)、実際は、天塩の出身(後記「今様桃太郎外伝」による)。おそらく、記事の取材時に「遠別」というのを聞き間違えたと思われる。
*3 「連帯」p.5。なお、戦前の警察は内務省隷下の出先機関として、現在でいえば、警察のほか保健所や建築確認機関の機能も有していた 。

■大島芳春は…

卒業後、まるで別の世界に行ったにもかかわらず*4、植民學校の同窓会(「校友会」という)については大変協力的だったようで、昭和37年発行の校友会〔日〕誌「植民」6号*5を見ても、南米からの校友の帰国時などには、その歓迎会の会場に会社の会議室を提供し、自らも出席している。



校友会〔日〕誌「植民」6号口絵写真中
「伯国・五十幡直義・崎山盛繁両氏歓迎会 3/24 "1962 於大島氏事務所」
前列左から3人目が大島芳春。その右が崎山盛繁
 

*4 本人は、折しも植民學校卒業の年「東京が例の大震災で灰炉と化した大きな焼野原を見て」取り組むべき地は「南米もさることながら現実我が脚下にある」と「翻然として悟」ったとしている(「今様桃太郎外伝」校友会〔日〕誌「植民」3号pp.59-61【大熊文献】)
*5 松原征男氏・蔵

■先の「連帯」の記事中で…

インタビュアーが「芳彦氏はお爺様に似ていらっしゃいますね」と発言しているが*6、確かに芳彦氏の風貌には、大島芳春の面影がある。

植民〔日〕6号掲載の大島土地建設の広告

が、
 何よりも似ているのは、ユニークな視点で新しい領域を切り拓いていくところにある。
 あるいは、これも植民學校が祖父大島芳春に伝えた「開拓者精神」の遺産なのかもしれない。
 
*6 「連帯」p.5

 

2016年12月30日金曜日

【資料】アマゾン拓殖のための日本の会社/機関の概要〔伯剌西爾年鑑より〕

【細かい経過を…】

書き出すとキリがないので、そちらは、研究誌用にこれからまとめるものを将来お読みいただくとして、昭和初期に、現地の州政府(パラー州とアマゾナス州)の要請に応じて、アマゾン各地に日本からの移民のための移住地を建設した、3社/機関の概要を、入手したばかりの、伯剌西爾年鑑から抜粋しておくことにする。

 実は、これは、ここ2年ほど前から欲しくなっていたデータで、これらの移住地は、戦後のような棄民、つまり「何もないところに日本国民を放り出す」ようなものとは一線を画しているもので、従前のドイツの方式に倣って、あらかじめ各専門領域の専門家で構成された調査団を送って移住地選定のための調査を行い、その後、まずは会社/機関の関係者が現地に入り、本部の建物、移住者のための仮宿泊所、医療機関(病院・診療所)、農業試験場、小学校、主要道路などを建築・開鑿したうえで、移住者を受け入れていた(すくなくとも、その上で受け入れようとしていた)。

 その会社/機関が、どの程度まで、これらのインフラを(いわゆるソフト面まで含めて)整備していたのかには、当然ながら差があって*、それぞれに、断片的な2次資料はあるもののまとまりを欠いていて、まとまった統一的な情報を入手するには至っていなかった。

*一言でいえば、資金の枯渇や会社内のトラブルなどで途半ばで終わったのが後述の「アマ興」、病院医師による巡回医療や気象台まで作るなど最も徹底していたのが同じく「アマ産」といえる。

 入手した伯剌西爾年鑑のpp.83~85に、この3者、つまり(現地での着手順で)
・アマゾン興業〔通称「アマ興」〕
・南米拓殖株式会社〔同「南拓」〕
・アマゾニア産業研究所(後に「アマゾニア産業株式会社」)〔同「アマ産」〕
の昭和8年当時の状況(ただし、アマ興はすでに機能不全に陥っていた)が、以下のとおり一覧できた。(文中「|」は、引用者挿入の改行を示す)

アマゾン興業株式會社

昭和三年九月の創立にかヽり、十月ブラジル國アマゾナス州政府と土地二萬五千町歩のコンセッション契約を締結、マウエス郡に事業地を獲得した、|
土地は南緯四度廿分、西徑五七度四十分に當り、アマゾナス河の支流マウエス流域にある、|
同社事業の特色は。會社自ら直營事業により大に収益を計ると共に、植民に對しては、土地は勿論其の生産物から厘毫の利益も取らぬ點にある、即ち入植者は總て株主中から選び、一口二十株(一株二十五圓二十株金五百圓拂込)の株主に對し、一耕作単位二十五町歩を無償譲渡し各自の自由耕作に委せその収益は全部各自の所得になるのであって、従って入植株主は利益配當を受ける外自己の努力次第で多大の収益を得る譚で、之は同社が組合の性質を加[え]て相互主義に立つものと云ふべきである、|
株主は満十八歳以上五十歳以下の男子単獨者でも二名以上團結して一團となる場合(内少く共一名は同社の株主名義人たるを要す)叉満十二歳以上の子女なき夫婦者に對しても、旅券下附に就ては特に外務省で便宜を與へ更に拓務省の渡航費補助の特典が與へられて居る、及滿十八歳以下と滿五十歳以上の男女子でも、家族として同伴する場合ならば、旅券及補助金に關し同様の特典がある、|
尚同社はアマゾナス州政府との特約により同社直營部及植民者の生産物に對しては向ふ十年間免税の特典がある、入植を希望せぬ株主は將來に向って其の權利を保留する事が出來る事になつてゐる、|
事業は既に百數十町歩の開墾栽培を終り、主としてグヮラナ、米、アバカシイ、マンジオカを栽培し、精米所、米籾倉庫、診療所學校、教會、集會所等の施設が備へられ、植民は既に昭和六年末に於て百十八名に達してゐるが、未だ創業期の事とて見るべきものに無い

本社 東京市丸ノ内海上ビル内
専務取締役 澤柳猛雄氏


南米拓植株式會社

昭和三年資本金壹千萬圓を以て設立された鐘紡系の會社である、その具體的に事業の進捗を見たのは昭和四年三月以降であって、ブラジル國パラー州アカラ郡にアカラ植民地、モンテ・アングレ植民地、カスタニヤール米作試驗所を設け、總面積一、〇三〇、〇〇〇町歩の地に拓殖事業を行はうと云ふ目的である、|
直接開拓の衝に當た同社支店はベレム市にあり、支店事務所兼倉庫、移民宿泊所(ベツド三百備付)及附属桟橋は昭和四年八月末に完成を見た、|
アカラ植民地は同年九月から建設に着手されその上陸地點たるトメアスーには棧橋、事務所、社員合宿所、物品供給所、病院、修繕舎、製材所、移民宿泊所、倉庫等の設備があり、道路約百基米の開鑿も竣工し既に自動車等の運轉も開始されて居るし各河川を利用する交通と相俟つて至極便利である、ベレンの本據まで八十哩気候は日中華氏九〇度が超ゆる事稀で至って凌ぎ易い、既に開拓された面積約二千五百町歩、入植者昭和六年度末で一〇一三名(經營植民地全部を合し)に達して居る、|
トメアスー根據地には病床五十を有する病院を建設し日本人醫師二名薬剤士一名其他看護婦數名を常備し植民地内にニケの診療所を設け衛生上萬全を期して居る、叉現在第一第二小學校を開き邦人及ブラジル人数師をして教育に從事せしめ、其他公會堂、日用品販賣所、製材所、鐵工所、農業倉庫、郵便局、無線電信所等の文化設備も完成を見た、|
同植民地主要生産物はカカオ、ピメンタ・ド・レイノ(胡椒)、棉花、米であつて成績見るべきものがある、|
同社は是迄分益制度によって經營を進めて居たが今年(昭和七年度)からはコロノ制度を施行すると云ふ、即ち植民者を希望に従って二分し、一に獨立植民とも云ふべく道路付森林地二十五町歩を入植當初より買受け、會社の指導と保護の下に獨立して農業を營む者で、他は所謂コロノとして會社直營の農場に入植しカカオの請負耕作を爲す植民である、地價は一町歩につき四〇[金千]乃至六〇[金千]*、自作農奨勵のため低廉ならしめて居る、|
将來の計畫としては、森林生産物中良材フレージョ、パウ・サント、パウ・ローシヨ、パウ・アマレーロ等の輸出、樹脂、カスタニア(パラー栗)、パウ・ローザ(香料)、其他植物性脂油の精製事業、アマゾン漁業、鑛業特に石油等に向って鋭意開拓の歩を進める筈であると云ふ

本社 東京府下隅田町隅田一六一二番地 鐘淵紡績株式會社内
社長 福原八郎氏
支店 Bele'm, Para',Brasil


*[金千]=ミルレース
 http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2009/11/5/nihon-no-kyouiku/

アマゾニア産業研究所

昭和五年豫て調査研究の結果開拓の準備を進めつゝあった上塚司氏(現大藏參與官)を主領とするアマゾン調査團一行十四名(在伯者を加[え]て實は二十二名)は、同年十月十八日アマゾナス州首都マナオスに於て、ヴィラ・バチスタの現在同所所有地の賣買假契約締結を爲し、越[え]て二十一日現地に於てアゾニア産業研究所の立柱式並に斧下式を兼ねた入植祭を行ひ、茲に同所の創立と開發の業が創められ、孜々營々今日に及んで居る|
同研究所開設當初の宣言には次の如き意味即ち
 将來我が大和民族が此の地に來り開拓し、栽培し、新社會を作り、
 新文明を樹立する上に寄與せんとして建設されたものであつて、更
 に世界文化の發達、人類福祉の増進に貢献せんことを期し|
 云々
とあり、此の大抱負を経綸せん爲めに大略左の事業を行ふ計畫であると云ふ
一、アマゾナスに於ける農産、林産
  水産、鑛産、地質、気象、保健衛生其他の調査研究
二、農産物の試作栽培
三、實業練習所の經營
四、醫院
五、氣象觀測所
六、博物館
七、各種調査報告書並に月報の發行
更に兼營事業として當分の間
一、農園の經營
二、製材所精米所及發電所の経營
三、林産及水産事業の經營
四、運輪業の經營
五、各種生産物の加工販賣
六、移民収容所の經營
等の諸事業を行ふ筈で、現在では既に附属實業練習所が設置され、農作物の試作栽培、氣象の観測、衛生保健の諸調査を開始して相當の成績を擧げて居る、|
所有土地の廣袤壹百万エクターレス、之が圓滑にして統制ある經營を行ふ爲めには人材を要すと云ふので、既に同研究所開設以前より國士館高等拓植學校(校長上塚司氏)なる教育機關を設け有為の青年を薫陶して之を植民地に送り出す事としてゐる、昨六年四月第一回卒業生を、更に第二回卒業生を今七年四月渡伯入植せしめた
 (同校は七年四月財團法人として獨立、東京高等拓植學校*と改稱)
最近更に精米、製粉、製材、發電等の諸設備が完成し運輸交通の方面にも着々設備が備へられたと云ふ

名稱 アマゾニア産業研究所
     INSTITUTO AMAZONIA
所在地 Villa Batista, W. Parintins, E. de Amazonas
東京本部 東京市麹町區内幸町一 大阪ビル内
所長 上塚司氏


所有地地域及び面積
東 Rio Manuru
西 Rio Maues        }四〇万町歩
北 Parama de Ramos
Tabocal 地方       二〇万町歩
Carvalho 地方       一〇万町歩
東 Rio Maues
                     }三〇万町歩
西 Parama do Uraria


*実際には、川崎を校地としたので、「日本高等拓植學校」(通称「高拓」)と称した。
 この高拓の卒業生「Koutakusei」の活躍については、現地語になっているほどで
 残る情報量も多いが、とりあえず
 http://www.amazonkoutakukai.com/
 は、参照不可欠。

めずらしい、アマゾン拓殖三巨頭の写真



前列左から、「アマ興」専務取締役澤柳猛雄、「南拓」社長福原八郎、「アマ産」所長上塚司
上塚芳郎/中野順夫「上塚司のアマゾン開拓事業」上塚芳郎/2013年・刊 p.094 より転載

【資料】1933年伯剌西爾年鑑

【ブラジル移民が…】

公式に開始されたのが、1908(明治41)年。いわゆる「笠戸丸移民」からで、781人の移民者を乗せた同船が神戸を出港してから約2月の航海を終えて、サントス港についた6月18日を、ブラジル側では「日本人移民の日」、日本側では「海外移住の日」と呼んでいる。
http://www.ndl.go.jp/brasil/column/kasatomaru.html



 この本

 
は、それから4半世紀となるのを記念して、1933年にブラジルの伯剌西爾時報社が編集・発行したデータブック。
 
(なお、目次は、国会図書館のここ
で確認可能)
 
 
定価欄の「金へんに千」はブラジルでの「ミル」の当て字

 
 したがって「年鑑」というのはあまり正確ではなく、「日系伯剌西爾大全」とでもいうべき内容の本である。
 
 ネットオークションでは、年末やお盆どきには、「お化け」が出ることが結構多いのだが、これも、その典型。
 普段あまり使わないキーワードで検索したら、ひょっこりと、この本が破格の価格で出品されていて、若干競ったものの無事に落札できた。
 
 昭和の8年、大きく括って昭和0年代という時期は、日本の会社・機関が一斉に北部のアマゾン河の流域の開拓に着手した時期で、崎山比佐衛がアマゾナス州マウエスに一家をあげて移住したのも昭和7年。
 
 したがって、この本には、アマゾン河流域の情報はまだ少なく、どうしても、南部とりわけ「聖市」ことサンパウロとその西の内陸地方のものが中心となるのだが、それでも、ここ数年間探していた情報が次々に発見できた。
 
 とりわけ、南部の在住者にほぼ限られるが、巻末の5分の2近くを占める名簿が圧巻で、自営農や商人、職人などだけでなく、コロノ、さらには農勞と呼ばれていた純粋な雇われ人も網羅していて、かねて消息を探していた人物の情報も見つけることができた。
 
 ただ、当時の慣例らしく、サンパウロなど海岸の大都市から内陸部に向かっている鉄道の路線別に、始発の都市から近い駅の順に日本人の移住地がリストアップされているので、そもそもこちらには土地観がないうえ、今では鉄道がなくなっているためにgoogle map は使えず、この80年の間に放棄された土地も多いようなので、目的の移住地を探し出すのには(後記のように本が「崩壊」してゆくのも手伝って)、意外に手間がかかる。
 
 「銀ブラ移民」で有名なアリアンサと名の付く植民地を例にとると、
「ノロエステ線」沿線で
p.151から始まる「リンス駅」の項に
・アリアンサ第一區植民地 pp.179~183
・アリアンサ・トビ三區 pp.183~184
その後、いくつかの植民地あるいは耕地と呼ばれていた地域が続き
p.191から始まる「プロミッソン驛町」の項に
・第三アリアンサ移住地 pp.273~276
・第二アリアンサ移住地 pp.276~278
・第一アリアンサ移住地 pp.279~284
・ノーヴァ・アリアンサ移住地 p.284
という順にリストアップされている(目的の人物は、第一アリアンサの「ドン尻」のp.284でようやく見つけ出した)。
 
 【余談】
 ただし、この本、さっそく、複合機で50ページほどpdf化したところ、紙質が悪いのだろうが、あちらこちらがバラバラとフレーク状に崩れてゆく。昭和8年出版ということなので80年程度経過した本ではあるが、日本のものでは綴じがはずれることはよくあるものの、ここまで風化して「本が崩壊してゆく」ようなことはまず起こらない(前のアーティクルの「雑誌 ブラジル 昭和8年3月号」は全く同時代、しかも「たかが情報雑誌」なのだが同様である)
 
 国会図書館のデジタルライブラリの本の表紙に「電子複写禁止」とスタンプの押されているものを目にするが、この本のような「崩壊型」ばかりではないのだろうが、「なるほどこういうこともあるんだ」と納得した。